ブラふとん「木屋町」(2015年)
この記事は2015年7月26日に投稿したものを加筆・修正しました。
今日は木屋町でブラふとん!
参加者は例によってふれっしゅさん、ぴょんぴょんさん。突然の呼びかけにも応じてくださって感謝です。
高瀬川
高瀬川は、1611年に角倉了以によって開削された運河。大阪から木材が運ばれ、この辺りに材木商が集まったので、木屋町と呼ばれるようになった。舟入とは高瀬舟の荷下ろしや方向転換を行う場所であり、現在では一之船入以外は埋め立てられている。
というわけで、舟入を順番に見ていこう企画です。
コンプリートしました!
それではまずは四条河原町に集合し、木屋町を北上していきます。
九之舟入
まずは九之舟入。石碑が立っているのみです。
と思いきや、痕跡を発見。橋の横だけ石積みではなくコンクリートになっている。舟入が埋め立てられた痕跡だ!
舟入の地形によるものか、道がくねくねしている。右の写真の右側が高瀬川のある方。左側の大木は舟入を見てきたのだろうか。
古そうな碑。三条大橋。
八之舟入〜七之舟入
八之舟入は通りの名前にもなっていた。
このマンホール的なのはなんだろう?
旧立誠小学校の前には高瀬川を開拓した角倉了以の像と、地図が置いてある。しっかり予習していこう。
(ちなみにこの旧立誠小学校は2018年から放送されているカードキャプターさくら クリアカード編の中学校のロケ地でもあります。)
立誠小学校へ向かう橋の下にはなんと船が隠されていた!
ちなみにこの辺りには江戸時代、土佐藩邸がありました。
六之舟入〜五之舟入
突き当りに見えるのは先斗町歌舞練場。一九二七年、木村得三郎が設計。実は設計顧問が武田五一。
高瀬川にかかっていた古い欄干を発見。お努めご苦労様でした。
木屋町三条には、安藤忠雄設計(1991年)のTIME’Sがあった。商業施設がたくさん入っていて、中が迷路のよう。
TIME'Sから木屋町通を見ると、高低差がよくわかる。三条通は周りと比べて高いところにあるんだね。新京極通のたらたら坂はこの高低差に由来します。
池田屋騒動(1864年7月8日)のあった場所は、居酒屋はなの舞になっていた。箸袋などの小物も新選組仕様になってるらしい。行ってみたいな。
四之舟入
僕「キルフェボンのとこだけ、石垣の種類が違う!」
ふれっしゅさん「四之舟入が埋め立てられたところに、キルフェボンができたんだね」
僕「ちなみにキルフェボンはタルトで有名で、店名はフランス語で『なんて良い陽気だ』って意味です」
三之舟入
この石垣も怪しいな〜舟入だろうな〜。
高瀬川。奥に見える石ころは、水を堰きとめる板をとりつけるためのもの。すごいものを見つけた!と思ったら石標に書かれていた(´・ω・`)
二之舟入
佐久間象山遭難の地。元治元年(1864)7月11日の夕刻、この路上を馬に乗って通りかかった佐久間象山は、刺客に襲われて斬られ即死した。池田屋騒動の直後であった。5年後の明治2年9月4日、この地の東側にあった旅宿の奥座敷二階で大村益次郎が斬られ、その傷がもとで益次郎は同年11月5日大阪の病院で歿した。
幕末の木屋町はぶっそうだなあ。
一之船入
一之船入だけが、現在も残っている。
近くにはレストランがあった。その名も一之船入。
復元された高瀬舟。高瀬舟って別に高瀬川だけにあるわけじゃないんだね。一般名詞。
角倉了以別邸跡
この石畳は市電の電停跡かな?
お店の前の看板を読んだ僕「料亭がんこは、山懸有朋の別邸だったそうですよ」
ふれっしゅさん「おや。漢字が違うね。山【縣】有朋だ」
料亭「がんこ 二条苑」は角倉了以の別邸跡。大きな石垣はおそらく創建当時からあるのだろう。この庭は、みそそぎ川(鴨川の横を流れる川)から水を引いていて、水は高瀬川に流れていく。
島津総合資料館。島津製作所の創業者、島津源蔵の住宅兼研究所として1894年に建てられた。次行く時は中を見学したい。
鴨川
鳩も暑さでぐったり。
みそそぎ川から高瀬川への取水口。ここから、がんこの庭に入っていく。
つけ麺
百万遍にあったつけ麺ろぉじは、高瀬川沿いの隠れ家的な、名前も看板も無いお店に変わっていた。味はあまり変わらなかったけど、店内も麺もおしゃれになっていた。